中島敦の小説「山月記」では、主人公の李徴が虎になってしまったことになっています。
もちろん現実には人間が虎になることなどあり得ません。
でも物語の中でということなら、人間が虎になることがあっても不思議はありません。
では「山月記という物語」の中で、李徴は本当に虎になったのでしょうか?
こうした目で本文を読み直しました。その結果、物語の中でも李徴は本当には虎になってはいなかったのでは、という可能性を強く感じました。
ポイントは
・本文中に李徴が虎になったという記述はない
(李徴本人の言葉だけ)
・誰も虎の姿や声をはっきりとは確認していない
(暗闇の中か遠くからだけ)
・李徴の行動が虎になったことを示してはいない
(言葉で説明しているだけ)
・袁傪も実はこのことを怪しんでいた
(後で考えれば不思議だったが)
・虎の習性と現実との関係が疑問
(白昼なら通れる?)
・近隣の人たちの行動と現実
(人食い虎の犠牲者はいたの?)
本文中に李徴が虎になったという記述はない
これはこの通りで、本文中に李徴が虎になったという記述はありません。
わずかに登場するのは
《果たして一匹の猛虎が叢の中から躍り出た。
・・・
忽ち身を翻して、元の叢に隠れた。》
《一行が丘の上についた時、
・・・
忽ち、一匹の虎が草の茂みから
道の上に躍り出たのを彼らは見た。》
の部分ですが、李徴が虎になったというにはかなり弱い根拠です。
誰も虎の姿や声をはっきりとは確認していない
人食虎が出ると脅された恐怖の中、わずかな月明かりで足元を確かめながら歩いている時に、突然現れたものを間近でじっくりと見れる人などいません。
みんな暗い中でパニックです。
人食虎が出ると言われていたので人食虎だと思い込んだだけです。
その虎もすぐに隠れてしまい、本当のところは誰にも分らず終いです。
最後に袁傪たちの一行が虎を見たのは、まだ月が見えるほどの明るさしかない中で遠くから見ただけです。
李徴の行動が虎になったことを示してはいない
李徴が虎になったということは全て李徴本人の言葉で語られているだけです。
李徴は何かと理由をつけて、逃げ込んだ叢の中から一行に姿を見せようとしません。
最後に一行と別れる際、李徴は一行に丘の上から自分を見てくれるよう頼みます。その理由は、
《我が醜悪な姿を示して、以て、
再び此処を過ぎて自分に会おうとの
気持ちを君に起こさせないため》
と言っています。
でも、どうしてその場で自分の醜悪な姿を示さなかったのでしょうか。
自分が叢から姿を現さない理由を問われて、李徴は
《自分が姿を現せば、
必ず君に畏怖嫌厭の情を起こさせる》
と言っていました。
もし本当に虎になっていたのなら、その場で姿を現してしまった方がより確実にも思えます。
李徴が言った中に次の言葉がありました。
《人間は誰でも猛獣使いであり、
その猛獣に当たるのが、各人の性情だという。
己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。》
李徴が言っていた「虎」はここでの虎(=尊大な羞恥心)だったのかもしれません。
袁傪も実はこのことを怪しんでいた
実は袁傪も李徴が虎になったということは怪しんでいました。
月明かりの中で突然李徴に会った時こそ、恐怖とショックと懐かしさと同情心とで冷静に考えることができず、李徴の言葉を素直に信じてしまいました。が、
《後で考えれば不思議だったが、
その時、袁傪は、
この超自然の怪異を、
実に素直に受容れて、
少しも怪しもうとしなかった。》
その時こそ李徴の話を本当のことと考えたものの、後で冷静に考えてみれば、袁傪も大いに怪しんだということですね。
虎の習性と現実との関係が疑問
本物の虎は夜行性ではありますが、狩りは昼もします。
ならば、人食虎が出る道は夜だけでなく白昼でも危険なはずです。
なのに、駅吏の言葉だと白昼なら安全という感じでした。
つまりこの虎は、本当の姿を人間に見られたくないと思っている虎だとも言えるでしょう。
近隣の人たちの行動と現実
人食虎が現れると言われる道では、いままで現実に何人の人が虎の犠牲になったのでしょうか。
駅吏の話からはそう言った現実に犠牲者が出たという印象は受けません。
「夜は幽霊が出るから
通らない方がいいよ。」
と言った程度か、もう少し怖い感じを与えた程度のように思えます。
だからこそ、袁傪一行はまだ暗いうちから出発することを決めたのだろうと思います。
まとめ
こうしてみると、この物語(山月記)は人が虎になったというおとぎ話ではなく、あくまで生身の人間としての李徴の精一杯の生きざまと苦悩が描かれていると捉えた方が正しい解釈に近づけるような気がします。