人間失格の大庭葉蔵、葉ちゃんの苦悩と人生をさぐる

太宰治の小説「人間失格」の主人公「大庭葉蔵」こと葉ちゃん、いろいろダメ人間みたいなことを言われることも多いみたいですが、京橋のバアのマダムによれば、

   私たちの知っている葉ちゃんは、
   とても素直で、よく気がきいて、
   ・・・神様みたいないい子でした

と言ってました。

本当はどんな人だったんでしょう。ある時は、
  「生涯にいちどだけでいい、祈る」
という場面がありましたが、そこでは、何を祈ったんでしょうか?
あるいはまた、
  「僕は、女のいないところに行くんだ」
というセリフもありました。 はたして、どんな気持ちで言ったんでしょうか?
最後のシーン「ただ、一さいは過ぎていきます」はどういう意味だったのか?

など、葉ちゃんの本当の人生を私も想像してみたいと思いました。

私がこの「人間失格」を読んだのは30歳ぐらいの時でした。そして「演技」という言葉が自分にも強く思い当たることがあり、とても強いショックを受けました。

そしてその数十年後のいま、もういちど葉ちゃんの人生をしっかりと見つめて直そうと、読み直しました。

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大庭葉蔵、葉ちゃんはどんな人?

葉ちゃんは東北のいなかの、お金持ちの家に末っ子として生まれました。
長兄と葉ちゃん以外は女で、お姉さんがたくさんいたようでした。
そんな葉ちゃんはどんな子だったんでしょう? 葉ちゃんの言葉の中から見ていきたいと思います。

★空腹という感覚が分からない

  小学校、中学校、自分が学校から帰って来ると、
  周囲の人たちが、それ、おなかが空いたろう、
  自分たちにも覚えがある。
  学校から帰って来た時の空腹はまったくひどいからな、
  甘納豆はどう? カステラも、パンもあるよ、
  などと言って騒ぎますので、
  自分は持ち前のおべっか精神を発揮して、
  おなかが空いた、と呟いて、
  甘納豆を十粒ばかり口にほうり込むのですが、
  空腹感とは、どんなものだか、
  ちっともわかっていやしなかったのです。

空腹感が分からない? 何故だったんでしょうね。葉ちゃんにとって、お腹が空いたということよりも、もっと大事なことがたくさんあったんでしょうか?
そんな葉ちゃんには、他にもこんな悩みがあったようです。

★葉ちゃんの悩み・会話ができない

  つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、
  程度が、まるで見当がつかないのです
   ・ ・ ・
  ・・・考えれば考えるほど、自分にはわからなくなり、
  自分ひとり全く変わっているような、
  不安と恐怖に襲われるばかりなのです。

  自分は隣人と、
   ほとんど会話ができません。

  何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。

  そこで考え出したのは、道化でした。

(親兄弟も含め)隣人とほとんど会話ができない、道化だけが唯一隣人とのコミュニケーションのツールのようでした。その意味では、皆を笑わせる「道化」は、葉ちゃんにとって決して楽しみなどではなかったようでした。
そしてさらに

★他人の気持ちが分からない

  自分は子供のころから、
  自分の家族の者たちに対してさえ、
  彼らがどんなに苦しく、
  またどんなことを考えて生きているのか、
  まるでちっとも見当つかず、ただ恐ろしく、
  その気まずさに耐えることができず、
  すでに道化の上手になっていました。
  つまり、自分は、いつのまにやら、
  一言も本当のことを言わない子になっていたのです。

自分の家族たちでさえ、何を考えているのかが全く見当がつかないという、恐ろしく不安な中で必死に「お道化」て、周りを笑わせていたんですね。自分の気持ちを誰かに話す、なんていうことはほとんどなかったようでした。

★全ては自分が悪い!

  また自分は、肉親たちに何か言われて、
  口応えしたことはいちどもありませんでした。
  ・ ・ ・
  だから自分には、
  言い争いも自己弁解もできないのでした。
  人から悪く言われると、いかにも、もっとも、
  自分がひどい思い違いをしているような気がして来て、
  いつもその攻撃を黙して受け、
  内心、狂うほどの恐怖を感じました。

その結果

★人間への恐怖から、お変人に

  人間に対して、いつも恐怖に震えおののき、
  また、人間としての自分の言動に、
  みじんも自信が持てず、
  そうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、
  その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、
  ひたすら無邪気の楽天性を装い、
  自分はお道化(おどけ)たお変人として、
  次第に完成されて行きました。

そして少年時代

★お道化の研究は休みなく

  自分は毎月、新刊の少年雑誌を十冊以上も、
  とっていて、またその他にも、
  さまざまの本を東京から取り寄せて黙って
  読んでいましたので、メチャラクチャラ博士だの、
  また、ナンジャモンジャ博士などとは、
  たいへんな馴染みで、また、怪談、講談、落語、
  江戸小咄などの類にも、かなり通じていましたから、
  剽軽(ひょうきん)なことをまじめな顔をして言って、
  家の者たちを笑わせるのには事を欠きませんでした。

本は大好きだったようですね。たくさんの本を読んで、その中から道化につかえそうなネタをたくさん取り入れて、これで天才的な道化者になることができたようでした。

葉ちゃんはとっても頭がいい子、いや、飛びぬけて頭のいい子だったようで、勉強も他の誰よりもよくできたようです。
でも、そのことがまた恐怖の原因にもなってしまっていたようでした。

★学校でも尊敬される恐怖が

  しかし、ああ、学校!
  自分は、そこでは、尊敬されかけていたのです。
  尊敬されるという観念もまた、
  はなはだ自分をおびえさせました。
  ほとんど完全に近く人をだまして、
  そうして、あるひとりの全知全能の者に見破られ、
  木っ端みじんにやられて、
  死ぬる以上の赤恥をかかせられる、
  それが「尊敬される」という状態の自分の定義でありました

ここまでで、葉ちゃんのことがだんだん、少しずつ分かってきたようです。
そして、ここまでのことから感じることは、

  葉ちゃんは、
  何らかの発達障害を抱えていたのではないか?

という疑問です。そして、それは

  アスペルガー症候群
  (または高機能自閉症)

だったのではないか、という疑問です。
もちろん私は専門家ではないので診断は下せませんが、私にはそう思えてしまいました。

アスペルガー症候群の特徴に関しては、次のページを参考にしました。
 参考  https://h-navi.jp/column/article/136

《「アスペルガー症候群」の3つの症状》より一部抜粋

———————————————————
 1.コミュニケーションの障害
   会話能力は表面上は問題なくできるのですが、
   その会話の裏側や行間を読むことが苦手です

  ■あいまいなコミュニケーションが苦手
   言われたことをそのままの意味として受け取ってしまう
   アイコンタクトや顔の表情を読み取るのは苦手

  ■不適切な表現を使用してしまう
   遠回しに発言することに困難さがあるため、
   言い方がキツく、ストレートすぎる発言になりがち

 2.対人関係の障害
   場の空気を読むことに困難さがあり、
   相手の気持ちを理解したりそれに寄り添った
   言動が苦手な傾向にあります

  ■大勢の中で浮いてしまう
   場にそぐわない発言や回答をしてしまう

  ■相手の気持ちを理解するのが苦手
   相手が何をどう考えているのかを想像することに
   困難さがある

 3.限定された物事へのこだわり・興味
   いったん興味を持つと過剰といえるほど熱中します

  ■マイルールがある
   自分の決めた予定や手順などを変えることを嫌い、
   頑なになる。無理に変更すると混乱してしまうこともある

  ■記憶力が高い
   興味のある物事に関しては、
   大量の情報を記憶したり、引き出すことができる。

  ■集中力がある
   興味のある物事に関しては、一度手を付けると
   熱中しすぎて周りが目に入らないこともある
———————————————————

葉ちゃんはこれに当てはまっていたのでしょうか?

「相手が何をどう考えているのかを想像することに困難さがある」に関しては、本文中、なんどもなんども繰り返し書かれていました。

「言われたことをそのままの意味として受け取ってしまう」も、講演会からの帰り道の場面で「清く明るくほがらかな不信の例」として表現されていました。

「記憶力が高い」、「集中力がある」では、いちど挑戦し始めた「道化」を、ほぼ完ぺきに身につけてしまうことや、本を読むことを通じて勉強が飛びぬけてできたことなどから、あったんだろうと予想されます。

「言い方がキツく、ストレートすぎる発言になりがち」に関しては何も書かれてはいませんが、「言われたことをそのままの意味として受け取ってしまう」と組み合わせて考えた時、たとえば、

  姉:どうせ私なんか、バカで
    世界一みにくいわよ!

  葉ちゃん:
    あなたなんか、バカで
    世界一みにくいよ!

なんていう会話があったかもしれません。
勉強ができて頭もよかった葉ちゃんがこんなことを言っているのを、お父さんが聞いたとき、何が起きたでしょうか?

葉ちゃんはお父さんに

  こっぴどく怒られた!

でしょうね。でも、葉ちゃんには

  自分がどうして怒られるのか、
  いくら考えても分からない!
そして
  誰もが、自分が悪いと言う

のだったろうと思います。
やや極端かもしれませんが、でもこんなことが何度も繰り返されたのだろうと思います。

その結果として

 「自分は隣人と、
   ほとんど会話ができません。
  何を、どう言ったらいいのか、
   わからないのです」

当然、こうなりますね。

★女性に関して、葉ちゃんの言葉

  自分は幼い時から、女とばかり遊んで育った
  といっても過言ではないと思っていますが、
  それは、また、しかし、実に、

    薄氷を踏む思いで、

  その女のひとたちと附き合って来たのです。

  ほとんど、まるで見当が、つかないのです。
  五里霧中で、そうして時たま、
  虎の尾を踏む失敗をして、ひどい痛手を負い、
  それがまた、男性から受ける笞とちがって、
  内出血みたいに極度に不快に内攻して、
  なかなか治癒しがたい傷でした。

なにがなんだか分からない、女性との付き合いの中で、葉ちゃんはとても苦しんでいたようですね。

★中学校のころ、アネサについて

  いったい、女は、
  どんな気持ちで生きているのかを考えることは、
  自分にとって、
  蚯蚓(みみず)の思いをさぐるよりも、
  ややこしく、わずらわしく、
  薄気味の悪いものに感ぜられていました。

その結果、

  そこで考え出したのは、道化でした。

「じゃあ女の人と付き合わなければいいじゃないか!」と思われるかもしれません。
でも、ダメなんです。葉ちゃんは

  拒否できない!

んですね。自分の意志を主張できなかったんですね。
なので、「道化」で薄氷を踏む思いの場面をいつも切り抜けていたんですね。
葉ちゃんにとって、道化は決して楽しみなんかではなかったようでした。もちろん、女道楽なんかでも決してなかったですよね。

でも、女の人は葉ちゃんのところにみんな寄って来るんです。

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★雑誌社の女、シズ子の言葉

  「・・・あなたを見ると、
  たいていの女のひとは、
  何かしてあげたくて、たまらなくなる。

  ・・・いつも、おどおどしていて、
   それでいて、滑稽家なんだもの。

  ・・・時たま、ひとりで、
   ひどく沈んでいるけれども、
  そのさまが、いっそう女の人の心を、
   かゆがらせる。」

女性にとって、葉ちゃんは母性本能を強く刺激してしまう存在だったようです。
葉ちゃん自身の言葉では

★葉ちゃんの言葉

  そうして、その、誰にも訴えない、
  自分の孤独の匂いが、多くの女性に、
  本能によって嗅ぎ当てられ、

  後年さまざま、自分がつけ込まれる誘因の
  一つになったような気もするのです。

葉ちゃんの女性遍歴を覗く

葉ちゃんのところには女性が集まってきます。
初めて下宿をした仙遊館では、姉娘が何やら理由をつけて葉ちゃんの部屋に入ってきて、手紙を書いているふりをしているようです。そこで葉ちゃんは、

★下宿していた仙遊館の娘

  早くこのひと、帰らねえかなあ、
  手紙だなんて、見えすいているのに、
  へへののもへじでも書いているのに
   違いないんです。
  「見せてよ。」
  と死んでも見たくない思いでそう言えば、
  あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、
  そのうれしがること、ひどくみっともなく、
   興が覚めるばかりなのです。

そこで、一計を策します。

 「すまないけどね。電車通りの薬屋に行って、
  カルモチンを買って来てくれない?
  あんまり疲れすぎて、顔がほてって、
   かえって眠れないんだ。
  すまないね。お金は、・・・」

 「いいわよ、お金なんか。」

  喜んで立ちます。
  用を言いつけるというのは、
  決して女をしょげさせることではなく、
  かえって女は、
  男に用事をたのまれると喜ぶものだ
   ということも、
  自分はちゃんと知っているのでした。

葉ちゃん、女性の扱い方はよく分かっていたんですね。
でも、こういったところで「女達者」と思われてしまったんでしょうね。

普通の会話がなかなかできなかった葉ちゃん、女性と一緒の時も「道化」で何とか場を取り繕うことが多かったようなんですが、それがまた女性を喜ばせてしまいました。その道化は、

★道化に関して、葉ちゃんは

  女は、男よりもさらに、道化には、
   くつろぐようでした。
  自分がお道化を演じ、男はさすがに
   いつまでもゲラゲラ笑ってもいませんし、

  ・ ・ ・

  女は適度ということを知らず、
  いつまでもいつまでも、自分にお道化を要求し、
  自分はその限りないアンコールに応じて、
   へとへとになるのでした。

こんな葉ちゃんには、親友と呼べる人はいなかったようです。葉ちゃんが親友と感じる人がいなかった、という意味ですが。
これはヒラメの家から逃げて、堀木のところに向かう時の言葉でも表現されています。

★ヒラメから逃げて、堀木のところに向かう

  自分は、皆にあいそがいいかわりに、
  「友情」というものを、
   いちども実感したことがなく、
  堀木のような遊び友達は別として、
  いっさいの附き合いは、
   ただ苦痛を覚えるばかりで、
  その苦痛をもみほぐそうとして
   懸命にお道化を演じて、
   かえって、へとへとになり、

  ・ ・ ・

  そのような自分に、いわゆる「親友」など
   出来るはずはなく、

そんな葉ちゃんにも、心落ち着く楽しい時間が、2回はあったようです。その中の一つは堀木に「貧乏くさい女」と言われたツネ子と一緒の時間でした。

★カフェの女、ツネ子

  けれども、そのひとは、
  言葉で「侘びしい」とは言いませんでしたが、
  無言のひどい侘びしさを、からだの外郭に、
   一寸くらいの幅の気流みたいに持っていて、
  そのひとに寄り添うと、
   こちらのからだもその気流に包まれ、
  自分の持っている多少トゲトゲした
   陰鬱の気流とほどよく溶け合い、
  「水底の岩に落ち附く枯葉」のように、
  わが身は、恐怖からも不安からも、
   離れることができるのでした。

そしてこんなことも、

  その詐欺罪の犯人の妻と過ごした一夜は、
  自分にとって、幸福な
  (こんな大それた言葉を、
   なんの躊躇もなく、肯定して使用することは、
   自分のこの全手記において、再びないつもりです)
  解放せられた夜でした。

葉ちゃんにとって、ツネ子は生まれて初めて自分に共感できる人だったんだろうと思います。そしてその後、二人で鎌倉の海に身を投げて葉ちゃんだけが助かり、ツネ子は死んでしまいました。

 「やはり、死んだ女が恋しいだろう」

と年寄りのお巡りに聞かれて答えた「はい」は、本心からの「はい」のようでした。
もうひとつの、葉ちゃんにとっての楽しい時間は、警察で罪人として縛られた時のことでした。

★お巡りと一緒に電車で横浜に向かう

  お昼すぎ、自分は、細い麻縄で胴を縛られ、
  それはマントで隠すことを許されましたが、
  その麻縄の端を若いお巡りが、しっかり握っていて、
   二人一緒に電車で横浜に向かいました。
  けれども、自分には少しの不安もなく、
   あの警察の保護室も、老巡査もなつかしく、
  ああ、自分はどうしてこうなのでしょう。
  罪人として縛られると、かえってほっとして、
   そうしてゆったり落ちついて、
  その時の追憶を、いま書くに当たっても、
   本当にのびのびした楽しい気持ちになるのです。

一瞬、不思議なようでもありますが、分かりそうな気もします。
もう演技しなくていいんだよ、お道化なくていいんだよの気持ちですね。しおらしく黙ってじっとしてれば、それが許されるんですね。

いろんな女性のもとを回っていた葉ちゃん、シズ子の家に住んでも落ち着かず、2晩外泊をしたところでシズ子とシゲ子が待つ部屋にこっそり帰って、部屋の様子を伺います。

★外泊後のシズ子の家を覗く

  シズ子の、しんから幸福そうな
   低い笑い声が聞こえました。
  自分が、ドアを細くあけて中をのぞいて見ますと、
   白兎の子でした。
  ぴょんぴょん部屋中をはね回り、
   親子はそれを追っていました。

 (幸福なんだ、この人たちは。
   自分という馬鹿者が、
   この二人のあいだにはいって、
   いまに二人を滅茶苦茶にするのだ。
  つつましい幸福、いい親子。

   幸福を、

  ああ、もし神様が、自分のような者の
   祈りでも聞いてくれるなら、
  いちどだけ、生涯にいちどだけでいい、

   祈る。

葉ちゃんの生涯いちどの祈り、何を祈ったんでしょうね。
きっと、この親子の「幸福」を祈ったんでしょうね。馬鹿な自分がこの二人の間に入ってしまって、この幸福を壊さないように、という祈りだったような気がします。

葉ちゃんにも幸福は来てくれたんでしょうか?

葉ちゃんがヨシ子ちゃんが用意しておいたジアールを一気に大量に飲んで、二度目の自殺を図った時、京橋のマダムとヒラメとを前にして突然口にした言葉、

  「僕は、女のいないところに行くんだ。」

ヒラメは大笑いしてました。マダムもクスクス笑ってました。
でも、おそらく葉ちゃんの本心だったんでしょうね。

葉ちゃんが脳病院に入院しているところに、お兄さんとヒラメが来て、お父さんが亡くなったことをその時お兄さんが教えてくれました。

★脳病院に兄とヒラメが来て、父が亡くなったことを知る

  父が死んだことを知ってから、
  自分はいよいよ腑抜けたようになりました。
  父がもういない、自分の胸中から一刻も
  離れなかったあの懐かしくおそろしい存在が、
   もういない、
  自分の苦悩の壺がからっぽになったような気がしました。
  自分の苦悩の壺がやけに重かったのも、
  あの父のせいだったのではなかろうかとさえ
   思われました。

子供のころお父さんに何度もきつく怒られたことが、ずっと心に残ってたんでしょうか?
そして
★最後

  いまは自分には、幸福も不幸もありません。
  ただ、一さいは過ぎていきます。

この、「ただ、一さいは過ぎていきます」は、どう解釈したらいいんでしょうね。
私には、苦しい人生の最後の最後で、

  静かな(幸福な)時

を迎えたのかもしれない、とも思えます。

  いや、ぜひ、
  幸福な時であって欲しい

と感じてやみません。

おまけ

葉ちゃんの不運な(?)人生を読んでいくと、とても気の毒に思えてしまいます。
そもそもは、どうやら何らかの発達障害(アスペルガー症候群?)を抱えてしまったことが根本なのかもしれません。それが

 ・周囲の人の感情が読み取れない
 ・誰かの言葉を、
   その言葉通りに受け取ってしまう
 ・自分の言葉が、
   なぜか相手を怒らせてしまう

といった症状として表れてしまい、しかし頭や記憶力はとてもいい、なので、

 ・自分の言葉で、周囲の人を傷つけてしまい
 ・自分が話すと、こっぴどく怒られてしまう

その結果

 ・自分は隣人と、
   ほとんど会話ができません。
  何を、どう言ったらいいのか、
   わからないのです。

につながってしまったのかな、と感じます。
そうすると、葉ちゃんは

 ・自身のことを誰かに話すことがない
 ・親友ができない
 ・自分はダメな人間だと常に感じてしまう

だったのだろうと思います。

ところで、以前テレビ番組で 「幸福学白熱教室」 というのがあって、その中では幸福の3つの条件の最初に、

  ●「人とのつながり」

が挙げられていました。

また、放送大学での「社会心理学’14」の中では

  ●自分のことを誰かに話すこと(自己開示
   健康と幸福に役立つ

  ●人間は、自分は平均より優秀だ(平均以上効果)
   などと、楽観的に考えるクセがあり、
   それが健康と幸福に役立つ

とありました。

こんな、健康と幸福に役立つための要素が、葉ちゃんの場合はどれもこれもはぎ取られてしまっていたようにも感じます。

葉ちゃんの周りに、これらのことへの理解者がいて、何でも話せる相手がいたら、それだけでずいぶん違っていたんじゃないでしょうか。
あるいは、自分で思ったことを何でも話せる「場」があったり、あるいは物事を「楽観的」に考えるための「認知行動療法」などを利用する機会などがあったら、葉ちゃんももっと幸せな人生が送れたような気がしてなりません。

また、高機能自閉症などといった症状が何故起きてしまうのかに関して、ちょっとだけ理由を考えてみました。

    自閉症の原因に思う

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