お嬢さんの人生と生きがいは・夏目漱石こころ

お嬢さんの人生と生きがいは
2009.06.23 Tuesday 10:24

夏目漱石の小説「こころ」の中のお嬢さんはどのように先生に接し、感じていたのでしょうか。そこを推理してみました。

そこでは、お嬢さんは最初から最後まで先生に好意を持ち、愛情を持っていた様子がこれでもかと書かれていました。
ひたすら先生を愛したお嬢さん(後の妻)の人生と生きがいを細かく見直していきたいと思います。


お嬢さんは最初から先生に好意を持っていたようです。
 《こうした邪気が予備的に私の自然を損なったためか、又は私がまだ
  人慣れなかったためか、私は始めて其所(そこ)の御嬢さんに会った
  時、へどもどした挨拶をしました。その代り御嬢さんの方でも赤い
  顔をしました。》
お嬢さんに初めて会った時、先生は既にあった若い女性に対する好奇心から、へどもどした挨拶になってしまったのと同様、お嬢さんも奥さんから聞かされたイケメンの(多分)書生さんに好奇心と期待とを持っていたのでしょう、初めて会った時から赤い顔になってしまったようです。


奥さんが暖かい心で先生を包んで、先生の心をだんだん和ませてあげています。家族の一員として先生を迎えて皆が幸せな様子がよくわかります。
 《御嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、
  定めて忙がしかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらで
  も時間に余裕を有っているように見えました。それで三人は顔さえ
  見ると一所に集まって、世間話をしながら遊んだのです。》
忙しかった御嬢さんも、先生と遊ぶ時間は最優先にしていたようですね。先生にとっては、生涯で最も幸せな時期だったと思いますが、お嬢さんと奥さんにとっても、とても幸せな時期だったと思います。

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幸せはまだまだ続きます。お嬢さんが一人で先生の部屋に入ってきて、先生と話し込む機会も増えました。
 《あまり長くなるので、茶の間から母に呼ばれても、『はい』と返事
  をするだけで、容易に腰を上げない事さえありました。それでいて
  御嬢さんは決して子供ではなかったのです。私の眼には能(よ)く
  それが解っていました。能く解るように振舞って見せる痕跡さえ明
  らかでした。》
子供ではなく、大人として先生の部屋に入って長く話し込んでいたのですね。当時なら、先生に対するプロポーズに近いものではないかという気がします。


どうやら奥さんもお嬢さんと先生とを結婚させたがっていたようです。
 《つまり奥さんが出来るだけ御嬢さんを私に接近させようとしていな
  がら、同時に私に警戒を加えているのは矛盾の様だけれども、その
  警戒を加える時に、片方の態度を忘れるのでも翻えすのでも何でも
  なく、やはり依然として二人を接近させたがっていたのだと観察し
  たのです。ただ自分が正当と認める程度以上に、二人が密着するの
  を忌むのだと解釈したのです。》
ただし、結婚する前に限度を超えてしまわないようにと気をつけていたのですね。そのため、奥さんはお嬢さんと先生との二人だけを残して家を空けることはしませんでした。


でも先生の心に猜疑心が起こってきてしまいます。その内容は
 《私が奥さんを疑ぐり始めたのは、極些細な事からでした。然しその
  些細な事を重ねて行くうちに、疑惑は段々と根を張って来ます。私
  はどういう拍子か不図奥さんが、叔父と同じような意味で、御嬢さ
  んを私に接近させようと力めるのではないかと考え出したのです。
  すると今まで親切に見えた人が、急に狡猾な策略家として私の眼に
  映じて来たのです。私は苦々しい唇を噛みました。
  奥さんは最初から、無人で淋しいから、客を置いて世話をするのだ
  と公言していました。私もそれを嘘とは思いませんでした。懇意に
  なって色々打ち明け話を聞いた後でも、其所に間違はなかったよう
  に思われます。然し一般の経済状態は大して豊だと云う程ではあり
  ませんでした。利害問題から考えて見て、私と特殊の関係をつける
  のは、先方に取って決して損ではなかったのです。》
というものです。
でもこの利害問題は、奥さんも同じことを感じていたでしょう。あからさまにお嬢さんと先生とを結婚させようとすれば、先生に誤解されてしまうという危惧を感じていたと思います。
これは、先生が「御嬢さんを私に下さい」と言った時の奥さんの言葉で
 《差し上げるなんて威張った口の利ける境遇ではありません。どうぞ
  貰って下さい。御存じの通り父親のない憐れな子です。》
この心境だったのでしょう。だから奥さん(とお嬢さん)にとって、先生の気持ちが落ち着き固って、先生からのプロポーズがあるのを辛抱強く待ったのだと思います。


奥さんが先生に着物をこしらえなさいと言います。結局3人で日本橋に出かけることになりました。お嬢さんはうれしくて精一杯化粧をし、とても着飾りました。それを先生の学友に見られてしまい、いつ結婚したのかと冷やかされた先生は下宿に帰ってその話をします。
先生とお嬢さんとの結婚話がいよいよ核心に迫りつつあったのですが、先生がなかなか煮えきりません。
 《私は肝心の自分というものを問題の中から引き抜いてしまいました。
  そうして御嬢さんの結婚について、奥さんの意中を探ったのです。
  奥さんは二三そういう話のないでもないような事を、明らかに私に
  告げました。然しまだ学校へ出ている位で年が若いから、此方(こ
  ちら)では左程急がないのだと説明しました。奥さんは口へは出さ
  ないけれども、御嬢さんの容色に大分重きを置いているらしく見え
  ました。極(き)めようと思えば何時でも極められるんだからとい
  うような事さえ口外しました。》
お互いに自分の手の内をひた隠しにして相手の手の内を読もうとする駆け引きは、私の周りにもよくありそうです。先生が自分の気持ちをはっきり言ってくれませんので、煮え切らない先生にお嬢さんは少しじれったくなってきたのではないでしょうか。
 《さっきまで傍(そば)にいて、あんまりだわとか何とか云って笑っ
  た御嬢さんは、何時の間にか向うの隅に行って、背中を此方へ向け
  ていました。》
あんまりだわと言いたくなる気持ちもわかります。「先生はっきりしてください。」の気持ちですね。
そのお嬢さんは先生の着物とお嬢さんの着物の反物が入った戸棚の前でそれをひざの上に置いて眺めていました。
 《御嬢さんは戸棚を前にして坐っていました。その戸棚の一尺ばかり
  開いている隙間から、御嬢さんは何か引き出して膝の上へ置いて眺
  めているらしかったのです。
  私の眼はその隙間の端に、一昨日買った反物を見つけ出しました。
  私の着物も御嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。》
将来の楽しい夢を思い描いたお嬢さんですが、少しは不安とじれったさもあったでしょう。


(前から続いて)先生が席を立ちかけると、奥さんが改まって先生に「どう思うか」を聞きます。「お嬢さんを早く片付けた方が得策か」という意味だそうで、先生は[なるべくゆっくりの方がいい]と答えます。奥さんとお嬢さんは、「私(先生)とお嬢さんとの結婚は急がないで、ゆっくり時期を待ちましょう」という先生の意思表示と受け取ったと思います。
これも駆け引きですね。


そんな中、先生は奥さんの反対を押し切って、友人のK君を同じ下宿に連れてきます。お嬢さんもK君と話をするよう先生に頼まれてしまいます。そう言われたらお嬢さんもしかたがないですね、何とかK君と話をしてあげようとします。ただ、K君とお嬢さんとの二人だけのときにK君の部屋に入って話し込むとどうなるのでしょうか。
ある日先生がいつもより遅れて帰ったときに、たまたま奥さんと下女が外出をしていて、K君とお嬢さんとがK君の部屋で話していました。先生が帰ってくる音が聞こえてお嬢さんはさすがに「いけない!」と思ったようです。
 《私がこごんでその靴紐を解いているうち、Kの部屋では誰の声もし
  ませんでした。
  私は変に思いました。ことによると、私の疳違(かんちがい)かも
  知れないと考えたのです。然し私がいつもの通りKの室を抜けよう
  として、襖を開けると、其所に二人はちゃんと坐っていました。K
  は例の通り今帰ったかと云いました。御嬢さんも『御帰り』と坐っ
  たままで挨拶しました。私には気の所為(せい)かその簡単な挨拶
  が少し硬いように聞こえました。》
お嬢さんややあわてたようですね。声がいつもと違っていたようです。でもその後の先生の様子を見ているうち、お嬢さんは段々うれしくなってきます。「奥さんは」と先生が尋ねます。いないとわかるとさらに「何か急用でもできたのか」と尋ねます。
 《奥さんが御嬢さんと私だけを置き去りにして、宅を空けた例はまだ
  なかったのですから。私は何か急用でも出来たのかと御嬢さんに聞
  き返しました。御嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に
  笑う女が嫌でした。若い女に共通な点だと云えばそれまでかも知れ
  ませんが、御嬢さんも下らない事に能(よ)く笑いたがる女でした。
  然し御嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断の表情に帰りました。》
お嬢さんは先生が自分に嫉妬してくれたと感じたはずです。煮え切らなかった先生の気持ちが分かって嬉しかったのでしょう。でも真剣な先生の表情を見てすぐ喜んだ表情をやめました。
そして夕食の席での話しです。
 《私はその卓上で奥さんからその日何時もの時刻に肴屋(さかなや)
  が来なかったので、私達に食わせるものを買いに町へ行かなければ
  ならなかったのだという説明を聞かされました。成程客を置いてい
  る以上、それも尤もな事だと私が考えた時、御嬢さんは私の顔を見
  て又笑い出しました。然し今度は奥さんに叱られてすぐ已めました。》
お嬢さんは先生の表情を見て、自分に嫉妬してくれたことを再確認できてまた嬉しかったのでしょう。すぐ奥さんにたしなめられてしまいましたが。


ところでこのとき、奥さんは先生とお嬢さんとの二人だけを残して家を空けることはしませんでしたが、K君とお嬢さんとの二人だけを残して家を空けました。つまりお嬢さんを買い物に連れて行かなかったのです。
多分奥さんはお嬢さんが先生に好意を持っていることを知っていて、結婚する前に先生とお嬢さんとを二人きりにすることを警戒したのでしょうが、お嬢さんはK君には特別な好意は持っていなかったことも知っていたので、短い時間K君と二人きりにすることには抵抗がなかったのでしょう。

(★)
お嬢さんがK君の部屋で話しこんでいたときに突然先生が帰って来ました。このときのお嬢さんの頭の中を想像すると結構面白いものがあります。かなり慌てたと思います。
K君と話をしている最中に先生が帰ってくる音がしてハッ!とします。次の瞬間、急いで部屋を出ようか、でもそれでは先生に疑われてしまう。それともこのまま会話を続けようか、それとも先生を迎えに出ようか、いろいろな考えが頭の中を駆け巡ったと思いますが、結局何もできませんでした。そしてその間、言葉が途切れます。お嬢さんが話すのをやめれば、K君との会話も途切れます。K君は無口ですから。これが先生が靴の紐を解いている間の無言の時間帯ですね。
お嬢さんは先生と顔を合わせて何とか平静を装って『御帰り』とは言いますが、いつもと違うことは先生にはすぐに分かりました。ところが次の瞬間、思いがけず先生の方が慌てだしたのでした。奥さんは? どうしてお嬢さんがK君と二人だけでいるんだ?・・・ 突然のことで、先生が素直に自分の気持ちを表に出してしまいました。
その先生の様子を見たお嬢さんは嬉しくなり、笑顔になりました。お嬢さんにとっては【勝利の笑顔】です。でも先生にとっては【私の嫌な例の笑い方】に見えるのですね。これは先生の負けということかな。ただ、あまり笑いすぎても先生に気の毒なので、通常の表情に戻しました。


その1週間後、お嬢さんはちょっといたずらをしてしまいました。こんどは先生が帰ってくる時間を計って、またK君の部屋にいます。再び先生が慌ててくれることを期待して・・・。
 《一週間ばかりして私は又Kと御嬢さんが一所に話している室を通り
  抜けました。その時御嬢さんは私の顔を見るや否や笑い出しました。
  私はすぐ何が可笑しいのかと聞けば可かったのでしょう。それをつ
  い黙って自分の居間まで来てしまったのです。だからKも何時もの
  ように、今帰ったかと声を掛ける事が出来なくなりました。御嬢さ
  んはすぐ障子を開けて茶の間に入ったようでした。
  夕飯の時、御嬢さんは私を変な人だと云いました。》
お嬢さんは完全に肩すかしをくってしまいました。先生の嫉妬が強すぎたということに気づかず、無視されたような気がしてしまったのでしょう。すぐにK君の部屋から立ち去りました。そして不満からつい先生に「変な人だ」と言ってしまいました。ただしすぐに奥さんに睨まれてしまいましたが。
実はこのとき先生は、K君とのいつもの「今帰ったか」の挨拶もできないほど焦ったのです。でもお嬢さんはそこまでは気がつかなかったようです。

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これは完全に推理の域をでませんが、上の時以外にもお嬢さんがはっきりしない先生を刺激するため、必要以上にK君に接近したことがあると考えられます。結果的には先生が焦って奥さんに結婚の申し込みをしたので、作戦成功です。
ただ物語はこの後、K君がお嬢さんを好きになってしまい、とても悩みます。そして先生は焦ってK君を追い詰めます。そしてK君が自殺します。先生が最後までお嬢さん(後の妻)にK君と先生との事実を話さなかった理由はこの辺かもしれません。もし話してしまえば、お嬢さんは
「私の軽率な行動がKさんを殺してしまった!」
と考えるかもしれません。としたら、やっぱり絶対にK君の自殺の理由をお嬢さんには話せません。


お嬢さんはやっぱり先生が好きです。先生とK君とが二人で房州の長旅から帰ってくると、いそいそと先生の世話を始めます。
 《それのみならず私は御嬢さんの態度の少し前と変っているのに気が
  付きました。久し振で旅から帰った私達が平生の通り落付くまでに
  は、万事に就いて女の手が必要だったのですが、その世話をしてく
  れる奥さんはとにかく、御嬢さんが凡て私の方を先にして、Kを後
  廻しにするように見えたのです。》
先生はK君に対して「私は心の中でひそかに彼に対する凱歌を奏しました」と、得意満面です。


しかし夏が過ぎ、9月が過ぎ、10月も半ばです。先生は結婚に関してまだはっきり言ってくれません。そして、お嬢さんは演技とは言えK君と一度は親しげにしてしまった以上、突然冷たい態度をとるわけにもいきません。お嬢さんが、先生がまだ帰ってこないはずの時間にK君の部屋にいるところへ先生が突然帰ってきます。お嬢さんは慌てて部屋を離れます。しかし先生はそのことに対して何も言いません。最初に先生から「Kと親しくしてくれ」と頼まれていたので、お嬢さんは先生も喜んでくれていると解釈したのかも知れません。その後はK君の部屋にも平気でよく行くようになります。


こんどは11月です。お嬢さんとK君とが連れ立って帰ってくるところに先生が遭遇してしまいました。先生は不機嫌になってしまいました。夕食のときお嬢さんにK君と一緒に出たのかどうかを質問しました。お嬢さんはまた嬉しくなったようです。
 《私はKに向ってお嬢さんと一所に出たのかと聞きました。Kはそう
  ではないと答えました。真砂町で偶然出会ったから連れ立って帰っ
  て来たのだと説明しました。私はそれ以上に立ち入った質問を控え
  なければなりませんでした。然し食事の時、又御嬢さんに向って、
  同じ問を掛けたくなりました。すると御嬢さんは私の嫌な例の笑い
  方をするのです。そうして何処へ行ったか中(あ)てて見ろと仕舞
  に云うのです。》
お嬢さんはまた先生の顔に嫉妬の表情を見ることができました。「何処へ行ったか当てなさい」とまで言います。少しはしゃぎすぎましたが、嬉しかったのでしょう。
K君とお嬢さんとは偶然出会ったのだと思います。K君は平気で嘘をつける人ではありません。また、もし当時の男女が連れ立って出かけるほどだったなら、K君が自殺をしたとき、お嬢さんは自分とK君との関係を自殺の原因の一つとして当然疑ったはずです。


そして冬が過ぎて春が過ぎ、また学校が始まる季節になります。ある日突然先生が奥さんに対してお嬢さんとの結婚を申し込みます。
 《私は突然『奥さん、お嬢さんを私に下さい』と云いました。奥さん
  は私の予期してかかった程驚ろいた様子も見せませんでしたが、そ
  れでも少時(しばらく)返事が出来なかったものと見えて、黙って
  私の顔を眺めていました。一度云い出した私は、いくら顔を見られ
  ても、それに頓着などはしていられません。『下さい、是非下さい』
  と云いました。『私の妻として是非下さい』と云いました。奥さん
  は年を取っているだけに、私よりもずっと落付いていました。『上
  げてもいいが、あんまり急じゃありませんか』と聞くのです。私が
  『急に貰いたいのだ』とすぐ答えたら笑い出しました。そうして
  『よく考えたのですか』と念を押すのです。私は云い出したのは突
  然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。》
既に先生のことを家族同様に考えていた奥さんは、先生の申し込み自身はずっと以前から期待(予測)していた内容なので驚きはなかったでしょう。ただ先生の言い出し方が突然だったのでややびっくりというところです。「急じゃありませんか」、「よく考えたのですか」と先生を気遣います。
そして
 《『宜ござんす、差し上げましょう』と云いました。『差し上げるな
  んて威張った口の利ける境遇ではありません。どうぞ貰って下さい。
  御存じの通り父親のない憐れな子です』と後では向うから頼みました。》
先生の申し込みを受けて、奥さんも晴れて「娘を貰って下さい」と頼むことができました。
そしてお嬢さんの意思に関しては『大丈夫です。本人が不承知のところへ、私があの子を遣る筈がありませんから』とのこと、奥さんとお嬢さんはずっと前からお嬢さんと先生とが結婚する積もりでいたのですね。
ついに先生からのプロポーズを聞かされて、お嬢さんはその日の夕食にはとうとう顔を出せませんでした。極(きま)りが悪かった(恥ずかしかった)ようです。


ところが結婚生活を始めると、先生は何故かお嬢さん(妻)を遠ざけようとします。
 《私は妻と顔を合せているうちに、卒然Kに脅かされるのです。つま
  り妻が中間に立って、Kと私を何処までも結び付けて離さないよう
  にするのです。妻の何処にも不足を感じない私は、ただこの一点に
  於て彼女を遠ざけたがりました。すると女の胸にはすぐそれが映り
  ます。映るけれども、理由は解らないのです。私は時々妻から何故
  そんなに考えているのだとか、何か気に入らない事があるのだろう
  とかいう詰問を受けました。笑って済ませる時はそれで差支ないの
  ですが、時によると、妻の癇も高じて来ます。しまいには『あなた
  は私を嫌っていらっしゃるんでしょう』とか『何でも私に隠してい
  らっしゃる事があるに違ない』とかいう怨言も聞かなくてはなりま
  せん。私はその度に苦しみました。》
何度も先生に問い詰める妻(お嬢さん)ですが、先生は決して理由を教えてはくれません。
先生はいつまでも仕事に就くことをしません。財産はだいぶあるのでその点では大丈夫です。あるときから猛烈に勉強を始めます。そして次はお酒に溺れ始めます。ついにはお母さん(奥さん)が妻(お嬢さん)に不平を言い出します。でも妻はそのことを先生には言いません。


妻は何とか先生と打ち解けようとします。
 《妻は度々何処が気に入らないのか遠慮なく云ってくれと頼みまし
  た。それから私の未来のために酒を止めろと忠告しました。ある時
  は泣いて『貴方はこの頃人間が違った』と云いました。それだけな
  ら未(まだ)可いのですけれども、『Kさんが生きていたら、貴方
  もそんなにはならなかったでしょう』と云うのです。》
基本的にはやさしい夫で、幸せな夫婦のはずですが、不安が消えません。それでも妻は先生が好きです。夫と暮らすことができて、やはり幸せは感じていたと思います。


妻(お嬢さん)はどんな思いで先生との生活を送っていたのでしょうか。物語の主人公【私】に対して、先生のいない場面で次のように説明しています。もちろん先生をとても愛しているとも言っています。
 《「その位先生に忠実なあなたが急に居なくなったら、先生はどうな
  るんでしょう。世の中の何方(どっち)を向いても面白そうでない
  先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生
  から見てじゃない、あなたから見てですよ。あなたから見て、先生
  は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか。」
  「そりゃ私から見れば分かっています。(先生はそう思っていない
  かも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。或
  は生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚(おのぼ
  れ)になるようですが、私は今先生を人間として出来るだけ幸福に
  しているんだと信じていますわ。どんな人があっても私程先生を幸
  福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。だからこうして
  落ち付いていられるんです。》
この中に妻の生きがいが表現されている感じがします。愛する夫の幸福のため、一生懸命尽くすのが妻(お嬢さん)の人生であり、生きがいです。
理由は分からなくても、世間嫌い、人間嫌いで不幸に見える先生を何とかして愛情と幸福を与えることこそが妻の役目です。そういう意味では妻は決して不幸とばかりは言えません。


妻は【私】に対して他にもいろいろ説明してくれます。【私】に先生が変わってしまった原因を聞かれても分からないので困ってもいることも話します。先生は理由に関しては何も言ってくれません。
 《奥さんは火鉢の灰を掻(か)き馴らした。それから水注(みずさし)
  の水を鉄瓶(てつびん)に注した。鉄瓶は忽(たちま)ち鳴りを沈
  めた。
  「私はとうとう辛抱し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪
  いところがあるなら遠慮なく云って下さい、改められる欠点なら改
  めるからって、すると先生は、御前に欠点なんかありゃしない、欠
  点はおれの方にあるだけだと云うんです。
  そう云われると、私悲しくなって仕様がないんです。涙が出て猶
  (なお)の事自分の悪いところが聞きたくなるんです」
  奥さんは眼の中に涙を一杯溜めた。》
普段は穏やかな妻ですが、【私】に先生のことを説明しているうちに、涙が出てしまいます。


でもそんな話をしているうちに先生が家に帰ってきます。妻は突然明るい様子に変わります。
 《十時頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今
  までの凡て(すべて)を忘れたように、前に坐っている私を其方
  (そっち)退けにして立ち上った。そうして格子を開ける先生を殆
  んど出会頭に迎えた。私は取り残されながら、後から奥さんに尾
  (つ)いて行った。下女だけは仮寐(うたたね)でもしていたと見
  えて、ついに出て来なかった。
  先生は寧ろ機嫌がよかった。然し奥さんの調子は更によかった。今
  しがた奥さんの美しい眼のうちに溜まった涙の光と、それから黒い
  眉毛の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常
  なものとして注意深く眺めた。もしそれが詐り(いつわり)でなか
  ったならば、(実際それは詐りとは思えなかったが)、今までの奥
  さんの訴えは感傷(センチメント)を玩(もてあそ)ぶためにとく
  に私を相手に拵(こしら)えた、徒(いたず)らな女性の遊戯と取
  れない事もなかった。尤(もっと)もその時の私には奥さんをそれ
  程批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝やい
  て来たのを見て、寧ろ安心した。これならばそう心配する必要もな
  かったんだと考え直した。》
どんな話をしていようと、先生が帰ってきたら悲しい顔は見せません。寂しい先生を励まして少しでも幸福にしてあげるのが妻の生きがいですから。当然笑顔で暖かく先生を迎えます。先生が帰ってきたことは、妻にとって再び人生の戦闘開始です。直前の自分の涙などもはやどうでもいいことです。
【私】が帰る時、妻は【私】に(せっかく来てくれたのに泥棒が入らなくて)「どうもお気の毒様」と冗談を言って、西洋菓子の残りを【私】の手に持たせてくれました。先生が見ている前だったのでしょう。


妻の生きがいである先生の自殺後は、物語は何も書いてありません。生きがいを失ってしまった妻(お嬢さん)のその後が心配です。

●K君はなぜ死を選んでしまった
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