人間には本能があります。いや、動物にも本能はあります。
そして、その本能の数は膨大です。(たぶん)
人間を人間たらしめる本能のひとつに
「与えたい」
という本能があります。
誰かに何かを与えられることは嬉しいですよね。もちろん、あまり嬉しくないこともありますが。
同じように、誰かに何かを与えることは嬉しいですよね。もちろんあまり嬉しくないこともありますが。
動物でも、親が我が子にエサなどをせっせと与えることはありますが、人間の場合はそれだけではないようです。
人間の場合は、相手が我が子や家族だけでなく、見ず知らずの人に対しても「与えたい」という感情を持つことがあります。
いや、相手は人間だけでなく犬や猫だったりペットだったり、時には野生の動物に対しても「与えたい」と思うことがあります。
この「与えたい」という本能は、いったいどうしてできたのでしょうか?
(注.ここでの内容は個人的意見です)
与えることと奪われることは違う
与えることとちょっと似ていることに、
奪われる
がありますね。これは自分の意志で与えるのではなくて、受け取る人の勝手な意思で持って行ってしまうことです。
さすがに人間にもこんな、「奪われたい」という本能はありません。
(人間の本能 自分の意志で)
テレビドラマなどで時々聞いたりする言葉に、この「奪われたい」なんていう言葉がありますが、これは本当の意味での「奪われる」というよりは、
奪いたい!
の裏返しのように感じます。
「レ・ミゼラブル」という本の中では、ジャンがミリエル司教のところから銀の燭台を盗んでしまいました。
これはミリエル司教にとっては「奪われた」ことになります。
この段階ではミリエル司教にとっては、あまり嬉しくない状況だったかもしれません。
ところがジャンが捕まってしまい、ミリエル司教のところに連れて来られたのを見て、ジャンに同情するとともに、「与える」本能が刺激されてしまいました。
その燭台は、私が
その人に与えたものです
ここで、「奪われた」状態から「与えた」状態に変化したわけですね。人間の本能のなせるワザです。
ところで、「奪われる」ということは誰もがいやなことです。なので、
奪うこと=犯罪
という合意が形成されたのでしょう。
ところで、人にある「与えたい」という本能は、なかなか気づかれにくいように思えます。
人は、どうして
「与えたい」という本能に
気づきにくいのか?
これは、人の成長の過程にあると思います。
子供の頃よりも大人になってからの方が「与えたい」という本能はより強くなります。そして子供のころはまだ誰かに与えるものを多くは持っていません。
そんな子供同士の世界や、親から与えられるだけで満足していた世界を経験するうちに、
与えられる= 快
与える = 苦痛
という図式が社会的合意のように脳に刷り込まれてしまったのでしょう。
よく
「いいよ、俺が払うから
遠慮しなくていいよ!」
なんていう言葉を聞くことがあります。
こんな時、素直に「ありがとう」と言っておけば、払った相手も「本能的欲求」が満たされることになるので、気分がいいかもしれません。
そしてそのことで、相手から「可愛いやつ!」なんて思われていることでしょう。
どうして与えたいと感じるのか
でもどうして「与えたい」と感じるのでしょう?
「長い柄のスプーン」という寓話には、ある人が神様に天国と地獄を見せて欲しいと言ったとき、神様が見せてくれた話がありました。
神様はその人を広い部屋に連れて行ってくれました。
部屋の真ん中にはおいしそうなシチューが
鍋の中でぐつぐつと煮えていました。
その鍋を大勢の人が取り囲み、
長い柄のスプーンを手にしていました。
でもそこでは誰もが青い顔をして
元気がなく、やせ衰えていました。
スプーンの柄が長すぎて、
シチューを口に入れる事ができなかったのです。
そして神様は次の部屋にも連れて行ってくれました。
そこは最初の部屋とそっくりの部屋でした。
でもこちらの部屋の人は笑ったり
話し合ったりして、とても楽しそうでした。
こちらの部屋の人はスープを
自分の口に入れるのではなく、
お互いに食べさせあっていたのでした。
こんな寓話です。
こういった寓話を待つまでもなく、人同士の助け合いは人類の繁栄に大きく役立ったことが分かります。
つまりは、
「与えたい」という本能は
進化の結果獲得した本能だ
ということが言えますね。
与えるのはものだけではなく、情報だったりもします。