人間には本能があります。いや、動物にも本能はあります。
そして、その本能の数は膨大です。(たぶん)
人間を人間たらしめる本能のひとつに
「偉い人には従う」
という本能があります。
俗に言う
「権威への服従」
です。
もしかしたら、ボス猿にメス猿が従うというのも権威への服従の一部とも考えられるかもしれませんが、人間の場合とはちょっと違っているように思えます。
人間の場合は、親だったり、先生だったり、専門家だったりと、権威の元がいろいろ異なっています。
アメリカの映画などではよく「ボス」という言葉が出てきたりします。ボスが決定して部下が従う、この関係は日本以上に強いように感じます。
(注.ここでの内容は個人的意見です)
集団と団結力の元
人間は本能的に「権威」に弱いです。
白衣を着て医師のように振る舞う人の言葉が、本当の医師の言葉のような影響力を持つ、などということを応用したテレビコマーシャルの例だけでなく、
有名な
ミルグラムの
服従実験
で示されたように、通常ならやらないようなことでも、権威者の言葉には従ってしまうという事実がありました。
その実験に参加した人の中には、額にあぶら汗を流し、苦しそうな表情でもう止めさせて欲しいと頼みながらも、結局権威者の指図に逆らうことができず、電気椅子のボタンを押し続けた人たちもいました。
また、会社であれば、上司の業務命令には納得しなくても多くは従うでしょう。
映画「駅馬車」の中では若い中尉が
「私は常に命令に従う」
と誇らしげに言っている場面がありましたが、人が権威に従う習性を示している言葉ですね。
この
権威に従おうとする本能
は、組織を作り上げようとする際には欠かせない力になったのでしょう。
以前、日本の軍隊が行っている場面を映画で見たことがありました。その中では
大きくて重い棒を
みんなで担いで移動させる
というものでした。
もしみんなが重いからと言って担ぐのを止めたら、最後に残った人が大けがをしてしまいます。
でも、上官の命令の下で、誰も担ぐのを止めようとはしません。
ひとりではとても運べないような重くて大きな棒を、当たりまえのようにみんなで運んでいました。
こんな組織としての行動は、人間に「権威への服従の本能」がなかったら、存在しなかったろうと思います。
その昔、狩りをして生活をしていたころも、リーダーの命令の下、集団での統一のとれた行動をすることは、生存競争の上でもとても強大な力になったはずです。
家族単位でしか集団にならなかったと思われるネアンデルタール人には、この「権威への服従の本能」はなかったのでしょう。
さまざまなところに権威がある
この権威は、一部の権威ある人たちだけのもの、というわけではありません。
その場ごとに権威者が異なります。
会社であれば上司だったり、社会生活の中では警察官だったり、家庭の中ではお父さんあるいはお母さんだったりします。
たとえばまだパソコンがまだそれほど普及していなかったころ、パソコンについて詳しそうに語る人は、その時その場では「権威者」でした。
またその昔、フィリピンにマルコス大統領がいたころ、国中でマルコス大統領に反対する声が上がりましたが、そこでは「大統領」という権威の前では、どうにもなりませんでした。
ところがある時、「大統領が国外に逃亡した」というニュースが国中に流れました。
その結果、マルコス大統領の「大統領としての権威」が一気に無くなってしまい、多くの国民が涙を流して喜んでいた場面がニュースに流れていました。
ところが実際は、マルコス大統領は国外に逃亡してはいませんでした。つまり逃亡したというニュースはフェイクニュースだったわけです。
でも、一度「権威」を失ってしまったマルコス大統領は、「実はまだ国内にいたんだよ」と言って出てきても、もう相手にされませんでした。
本当に逃亡するしかなくなってしまったのでした。
こんな感じで、権威は常に一部の人に固定されているというわけではありません。
リーダーシップ白熱教室で、ロナルド・ハイフェッツ教授がリーダーシップに関して言ったように、その場その時ごとに誰かがリーダーシップを発揮する、そしてリーダーシップを発揮する人が「権威者」となる、あるいは皆がその人に「権威を与える」ものなのでしょう。
何はともあれ、この「権威に服従する」という本能が人類繁栄の強力な力となったことは事実でしょう。