人は何かが変化するから気づく、動物としての共通の感覚?

人が何かに気づく時というのは、多くは何かが変化した時ですね。

動いた時、変わった時、予測と異なった時、アレッと感じます。

そして、これは人間だけじゃなくて、ほとんどすべての動物に言えることでもあるんでしょうね。

つまりは動物としての本能でもあるという訳ですね。

これは幸と不幸という感じ方だけじゃなくて、見えること、聞こえることなど、ほとんどに言えそうに感じます。

たとえばライオンのような野生の動物でも、

  獲物を狩る時

なんかに、よく

  物陰にじっと潜んで

   動かない!

なんてよくありますね。

  これ、どうして?

と考えても、答えは一つ!

  動くと獲物にバレるから!

しかありません。

動くということも、

  視覚的には
   変化したこと

なので、いちいち動いてたら獲物の動物にもすぐバレてしまって、狩りになりません。

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音の高さや言葉の聞き取りは、音の比較とジャンル分けで

こんなことを私が最初に感じたのは、歌を聞いて

  ドレミファ…

が簡単な歌なら分かるからです。

聞いた歌のドレミを頭で覚えて楽器で弾くと、大抵はあってます。

ところが、

  音を一つだけ聞く

と、ドレミの中のどの音なのかがまったく分かりません。

  あれ~?

なんて、バカな疑問を持ったもんだと思っていたのですが、あるときハッとしたのが、

  他の音と比較しないと

   その音が何かは分からない!

ということでした。

いや、子供のころに特別な訓練をすることで、ひとつの音を聞いただけでもその音が分かる

  絶対音感

を持つという人もいますが、それは例外として、私だけじゃなくても

普通はいくつかの音を組み合わせて聞いてはじめて、ドレミの音階が分かるもののように思います。

同じことは、テレビなどでよく聞く

  歌手の歌う声

でもありました。

この歌手の言葉って、普通私たちが話す言葉みたいには口を開けたりはしません。

多分、声がよく響くようにということかと思いますが、

どの言葉もみんな似たような口の開き方で声を出しています。

かなり古いですが、歌手の荒木一郎さんの歌を聞いてて、

  真っ赤なドレスを君に~~~~

  愛しているんだよ~~~~~~

なんて歌ってるんですが、~~~~~と長く伸ばしているうちに、どれもこれもが最後は

  ウ~~~~~

になっていました。本当だったら、

  イ~~~~~
  オ~~~~~

みたいに聞こえなくちゃいけないはずなのに、よく聞いていると最後はみんな、ウ~でした。

それでも、荒木一郎さんの歌を聞いていて、

言葉が「アイウエオ」の何を言っているのか分からない!

なんていうことは、まったくありません。

そして、これは別に荒木一郎さんに限ったことじゃなくて、ほとんどすべての歌手についても

同じことが言えるんだろうと思いました。

なんせ、歌っている時の声と、普通に話している時の声は全然違うんですから。

じゃあ、言葉が

  どうして分かるのか

というと、歌っている声を聞いているうちに、脳が自動的に声を

  ア、イ、ウ、エ、オ

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の5つのジャンルに分類してくれて、それで判断するので、言葉として分かるんですね。

で、

ということは、

  最初の音だけを聞いても

   その音が何かは分からない!

ということになりますね。

そして、これ、

このことが、放送大学の認知心理学での実験でありましたよ。

高野陽太郎先生の認知心理学’13の12章の中での実験で紹介されていたのですが、

  「夢のような施設」

という言葉の、最初の

  「夢」

という部分の音だけを聞いても、ほとんどの人が何を言っているのかが分からないけれども、

文節全体を聞くと、今度はほとんどの人が、最初の単語が分かるという実験でした。

結局、比較する音が聞こえないと、聞こえた音がアイウエオのどの音だったのかが分からず、

でも比較する音が聞こえれば、こんどは分かるんですね。

比較は音だけではなく、眼でも感情でも大事

これも放送大学の社会心理学での話ですが、

  銀メダルと銅メダル、どっちが好き?

というのがありました。

銀メダルや銅メダルも、それだけを貰ってどれだけ嬉しいかというのは、

すぐには決まらなくて、何かと比較してはじめてどれだけ嬉しいかが決まるんですね。

ちなみに、銀メダルの人は、つい

  金メダルの人と比較してしまう

ために嬉しさがイマイチなのに対して、銅メダルの人は、

  メダルを取れなかった人と
   比較する傾向がある

ために嬉しさが大きい、ということのようでした。

日本では、大地震や台風などでライフラインがなくなることの大変さが身に染みることがありますが、

でもこのライフラインって、数百年前にはほとんどなかったものなんですね。

昔の人にとって、現在のようなライフラインがなくても、

(当然のことなので)ちっとも不満は感じかなったろうと思います。

逆に、数百年後の人類は、今よりももっと便利な生活になっているかもしれません。

けれども、その数百年後の便利な生活じゃないからといって、今不満を持つ人はいません。

というか、知らないので不満を持ちようがない!

と、ここで、ちょっと心配なことが・・・

いま、医学はとても進歩しています。

そして、ひと昔前ならば助からなかった人が今は助かる! ということも増えてきました。

ところが、このことによって、

  「今は、この病気は助かる!」

という感覚が標準になると、治療の結果がこの標準と比較されることになります。

そしてこの標準が、どんどん上がっていきます。

そうすると、ますます治療事故の可能性が増えてしまい、医療関係の人にとって、

技術力がつけばつくほど、治療ミスと損害賠償請求の危険が増えてしまうという、

困った事態になりそうです。

いま、産婦人科のお医者さんの数が足りなくて困っているなんていう話も聞きますが、

どうすればこういう問題の解決ができるんでしょうね。

収入の話で、多くの人が

  収入が今より10%
   上がると満足する

なんて思っていること程度なら大したことはないんですけどね。

でも、ということは、ほとんどの人が現在の給料に不満を持っているということなんでしょうね。

多分、あと10%収入が上がった時の自分といまの自分とを比べちゃうんでしょうね。

でも、これ、人間の本能なのでしょうがないのかもしれません…

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