放送大学・「認知症と生きる」第14章
当事者から見る認知症 家族編1
認知症と生きる 当事者から見る認知症[14章A] 家族編1
講義内容の整理
認知症の当事者から見た認知症に関して、第13章では認知症の本人にフォーカスを当てましたが、
ここでは、認知症の家族にフォーカスを当てて、認知症がどのように見えるかを学びます。
認知症の家族を抱え、その介護に大変な思いをしてきたアン・デヴィッドソンさんが
「アルツハイマー ある愛の記録」
という本で夫の病気が進行する間のことを書いてくれました。
そんな認知症の人と一緒に生きている家族の立場からみて認知症がどう見えるのかを理解したいと思います。
アルツハイマーの宣告
講師の先生が2004年に京都での「国際アルツハイマー病協会」の国際会議に出席された時、
「アルツハイマー ある愛の記録」の著者のアン・デヴィッドソンさんもそこに出席されていたとのことでした。
若年認知症のアルツハイマー病と診断されたのはアン・デヴィッドソンさんの夫で、その夫はアメリカのスタンフォード大学の教授でした。
それまで大学の教授として高度に知的な仕事をし、大きな業績もあげてきた夫がアルツハイマー病と診断されたことをきっかけに、その介護の記録を本にしたものが「アルツハイマー ある愛の記録」でした。
言語セラピストとして高い知的な仕事をしていた妻のアン・デヴィッドソンさんも、かつてはスタンフォード大学で教べんをとり、優秀な論文を書いていた人でした。
アルツハイマー病の夫が、たくさんのものをひとつひとつ失っていく過程で語った言葉、
「言葉がどんどん消えていくんだよ
その言葉を探しているうちに、
考えも消えてしまうんだ」
という言葉がありました。
何かを話そうとするのですが、
「あれ、なんていう言葉だったかな?」
と思っていろいろと言葉を探します。
あれだったか、いや違う…
などと思っているうちに、自分が何を考えていたのかを忘れてしまう。
そして結局何も話せずに終わってしまいます。
そして、そんな自分の姿に本人も気づいてしまい、また打ちのめされて行ってしまいます。。
妻のアンさんも、自分の孫と同じような話し方しかできなくなっていく夫を見て、
「心に熱い鉄の棒を
突き込まれたような
気持ちになる」
と本の中で話してくれています。
認知症の人を家族に持つということは、本人とはまた違った不安や痛み、悲しみ、苦しみを伴うのでしょう。
この講義を受講して
認知症の人に接する上で気をつけることとして、開かれた質問だったり閉じられた質問だったり、あるいは「共感する」といったことなど、いろいろ学びましたが、実際にその場に居合わせたらとても大変なことなんだろうと感じさせてくれます。
「アルツハイマー ある愛の記録」のアン・デヴィッドソンさんの場合も、つい感じてしまうのは、介護する妻にとって、
「夫の病状の変化を受け入れ
変化について行くことが
きわめて難しいのだ」
ということです。
しっかりとコミュニケーションを取ることができないために起こる不都合なことに、ついつい怒ってしまいます。
ふたつの映画館を前にして、「この映画の列に並んで待ってて」と頼んだ場面ありました。
この時、妻は一方の映画館を指さしましたが、その時夫は他方の映画館の方を見ていたため、並ぶ列を勘違いしてしまったという場面です。
それまでならこんな勘違いはしなかったはず、なので今回も勘違いはしないだろうという思い込みがあったのだと思います。
その他にも、これまでならしっかりできていたということをよく知っている妻にとって、今しっかりできない夫を見ると、ついいら立ってしまう場面も随所にありました。
空気を読むことが大事とされる日本と比べると、アメリカでは言葉でのコミュニケーションが中心と聞きます。コミュニケーションをとるためには言葉ではっきり言わなければならないということです。
そんなアメリカで言葉が話せなくなるのは、大変なハンディなんだろうと思います。
ただ、介護する家族の側にとって、それはとても大変で、
自転車で外にでかけて、
何度も自転車をなくしてしまう
そのために、何度も自転車を買うことになたり、
何度も同じ話を聞かされる
ことで、イラついてしまったり、
また、聞かされる言葉も意味不明の言葉で、いつも謎解きのようにその意味を考えるということも本当に大変です。
「あれはどこだ… あの大きいやつは…
きみのじゃなくて… ぼくのものは…
あの違うものは?」
彼の言葉を理解できないことによるフラストレーションは、妻にも夫にも大きいものだと思います。
ここは、本当にしっかりと認知症の介護を行うためには、デイサービスやデイケア、グループホームなどの介護のプロの人たちの力がやっぱり重要なのかと思います。
この本の著者のアン・デヴィッドソンさんの場合は、アルツハイマー病と宣告されて、
最後に二人だけ
取り残されたらどうしよう
という強い不安感があったのですが、実際は
子どもや友人たちが支援してくれた
ということでした。
参考
(認知症と生きる 当事者から見る認知症[14章A] 家族編1)
(認知症と生きる 当事者から見る認知症[14章B] 家族編2)
(認知症と生きる 当事者から見る認知症[14章C] 家族編3)
(認知症と生きる 当事者から見る認知症[14章D] 家族編4)
(認知症と生きる 当事者から見る認知症[14章E] 家族編5)